安田工業株式会社

当社の生い立ち、工作機械メーカーになるまで

シリンダーボーリングマシン

シリンダーボーリングマシン

 1929年(昭和4年)、大阪市に安田信次郎が自動車エンジン用のピストンとシリンダーの再生加工業を生業とする、たった3人の小さな町工場「ストロング商会」を立ち上げたのが当社の始まりです。設備機器への投資を惜しまず、世界の一流機器を設備したことと、徹底して加工精度を追求する姿勢が評価され、ストロング商会は自動車業界から注目される企業となり、事業は着実に発展していきました。

 その後当社は、シリンダーボーリングマシンの開発によって、加工業から機械メーカーへと転身し、さらに工作機械メーカーへと変わっていきましたが、一流の機器を使用することが作業者の技能向上への意欲を醸成することにも繋がるという創業者の考え方は、今日まで連綿と継承されています。

 当社が産声を上げた年の10月24日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所の株価大暴落から世界大恐慌が口を開け、世の中は第二次世界大戦へと激動の時代に突入していきます。

 1944年(昭和19年)、当社は戦火を避けて創業の地大阪から岡山県の西端に位置する笠岡という町へ工場疎開をし、社名を「安田工業株式会社」に改称しました。疎開から間も無く終戦を迎えましたが、大阪は戦火に焼かれ、帰ることも叶わず、笠岡にて事業を再開しました。

 

デブリーグ社ジグミル

デブリーグ社ジグミル

 戦後の急速な技術の進歩は、早晩エンジンの再生業とボーリングマシンの需要を衰退させると予想し、事業の転換が焦眉の重要課題となりました。1958年(昭和33年)、信次郎と長男で大学生の之彦(現会長)は、新事業を模索して3ヵ月にわたる欧米視察に出掛けました。その中で出会ったデブリーグ社のジグミルが、高精度を追求する工作機械づくりへの業種転換を決定づけました。

 1960年(昭和35年)、日本工作機械工業会へ入会し、工作機械業界に参入すると、翌年には東京国際見本市に大型自動ホーニング盤を出展しました。また、当時の笠岡工場は住宅街に位置していたため、本格的に工作機械を製造するための工場建設の地を隣町の里庄町に求め、移設を開始しました。現在では機械工場、恒温組立工場、板金工場、第二工場、そして2009年(平成21年)には新たな恒温組立工場を加えた本社工場群がこの地に集中しています。

YBM-50J試作機と現会長

YBM-50J試作機と現会長


 

 1963年(昭和38年)、開発を進めていた、先進的な特長を備えた横精密中ぐりフライス盤「YBM-50Jシグマスター」が誕生し、これが高精度マシニングセンタ製造の端緒となりました。その改良型である「YBM-50J-S」は、後年「歴史的価値のある工作機械の顕彰会」において「ベストテクニカル賞」に顕彰されるという名誉に与かりました。平行してNC機の開発も進め、1966年(昭和41年)には横型マシニングセンタ「YBM-80NR」を開発し、NC工作機械の先発メーカーとなりました。

 
 

 そして、今日まで「最大ではなく最高を目指す」という経営理念に忠実な製品づくりを続け、マシニングセンタメーカーとしての「YASDA」を認知していただくことができるようになりました。

 これまで数え切れない程、たくさんの方々から頂いた温かいご支援とご教導のお陰をもちまして、当社は、昨2012年5月で創業83年を迎えることができました。これからも堅実な製品づくりで皆様の信頼に応えてゆきたいと思っておりますので、今後とも宜しくお願い致します。

現在の社屋

現在の社屋

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