株式会社嶋田鉄工所

多軸自動盤“ SHIMADA”のルーツ

皆さん、こんにちは。株式会社嶋田鉄工所です。
このたび新たに日本工作機械工業会の会員に加えていただくことになりました。今後とも宜しくお願い致します。 私ども、嶋田鉄工所は63年前の昭和22年(1947年)に愛知県蒲郡市にて小さなガレージからスタートした会社です。 創業者の嶋田徳春翁は、青春時代の大半を占めた7年もの長きにわたる中国出征から復員した後、工作機械の製造に夢を見出し、 浪漫を覚え、徒手空拳から会社を興した;この時代の日本には数多くいたそんな若者達のうちの一人でした。


資金も人手もコネもなく、たった一人で始めた商売は多くの苦労や予想外の事態の連続であったでしょうが、 4.5尺の普通旋盤の製造から始まり、縦型・横型フライス盤へと機種を増やし奮闘していました。この年代に 製造された旋盤やフライス盤のうちの何台かは、今も当社の工場で社員達が毎日のように使っており、 故障があれば自らの手で修理して、大切にしています。当社の歴史がこれからも続く限り、この機械達 には現役でい続けて欲しいものです。


先日、筆者が会社の古い資料を整理していると、この時代(創業して十数年の頃)撮った記念写真が出て参りました。社員旅行で行った瀬戸内の港を背景にしているその写真には、現在の当社では最年長の勤続50年超のベテラン社員が学生服を着て立っており、さらに徳春翁の母君やその他社員の家族までが写っていました。何人かの社員は徳春翁の自宅に住み込みで働くなど規模はまだ小さい会社でしたが、社員旅行には家族まで伴って出掛ける、旧き良き時代を見せてくれる写真でした。

旧き時代の社員旅行
 旧き時代の社員旅行

そんなわが嶋田鉄工所が飛躍するきっかけとなったのが、昭和37年(1962年)の国内で初めてとなる6軸自動盤の開発でした。徳春翁がどのようにして6軸自動盤を知ったのか、開発しようと決めた時の高揚感、開発に成功した時の達成感、1号機が売れた時の感動は、今は亡き創業者から聞くことはもうできませんが、この先代の遺産が現在でも当社の看板商品です。


6軸自動盤の後は、昭和47年(1972年)の8軸自動盤の開発となるのですが、これら多軸自動盤というのは、主軸を複数本持つ旋盤です。主軸(チャック)が6本あり、工程をその軸数である「6」に分割するので、非常に早いサイクルタイムでの加工を可能にする訳です。自動盤という名が示す通り欧州発祥のこの機械は、カム駆動と複数主軸での工程分割により金属部品加工業に大きな生産性革新と経済性をもたらしましたが、当社の多軸自動盤はこれら欧州発祥型と異なった側面を持っています。昨今の工業先進国で起きている職人(マエストロ)達の引退が表面化する遥か以前から、ユーザーの使い勝手を考慮してカムを使わない多軸自動盤を製造する方針を取ったことです。


第2の飛躍になったのが昭和61年(1986年)のCNC6軸自動盤の開発でした。当時、単軸旋盤(多軸自動盤に対し、あえて主軸1本の普通の旋盤をこう呼ぶと)にはNCを搭載することが一般的になってきたのに対し、多軸自動盤には国内・海外の各メーカーともにNC化は為されていませんでした。加工精度に限界があった従来型からこのNC6軸自動盤の開発により、多軸自動盤が見直され、より広い分野で使っていただけるきっかけとなりました。

風光明媚な環境と機械に精通した社員

平成11年、いくつかの小さな工場で分かれていた生産を1ヵ所にまとめ、生産能力を上げるために創業の蒲郡市から隣の豊川 市御津町に工場を移設しました。別々の工場で作業していた社員達も一つにまとまることで、工程間の摺り合わせも楽になり、 交わす言葉が増えて活発に、結束力も高まったのではないでしょうか。
本社・工場が位置するのは東名高速:豊川インターから南に直進し、工業団地に架かる橋を渡り、海の近くまで来ると左手に『SHIMADA』の文字が見えます。

新幹線の停車駅である豊橋駅からも車で15分程で、森林豊かな公園やサッカーと野球のグラウンド、近くの海にはヨットが帆走する場を持つというおよそ工業団地らしからぬ風光明媚な土地ですが、考えてみれば精密機械である工作機械の製造には、やはりこういった環境がそこで働く社員達にも良いのかもしれません。
ここで働くのはほとんどが地元出身者で、多軸自動盤をユーザーがいかに使いやすく、早いサイクルタイムで加工できる機械にするかに日夜精進し、腕を磨いています。

このような会社でございますが、お近くにお越しの際は是非当社にお立ち寄り下さい。
今後とも嶋田鉄工所を宜しくお願い致します。

工場内風景 本社工場
 工場内風景  本社工場
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